区有地については明治2年版籍奉還により三宅藩の領地であった、これらの土地は官有地になった。
この時、渡辺崋山の息子で家老の渡辺小華や上田畴
(ヒトシ)らの考えで士族の授産を名目として生田則博、佐野常民を総代として無償下附を請願し、認可された。
 渡辺、上田の両人はこれを田原の共有の土地にするのがよいという考えから、時の戸長 加子三右衛門にすすめた。
時の総代 粕谷左右衛門、神藤源右衛門らはこれに賛成し手続きをしようとしたがこのことを聞いた町民の多くが反対した。
その理由は官有地であれば年貢もなく山の薪材は取り放題であるのに私有地となると、年貢を取られるかもしれない。これは断固拒絶すべきだと毎夜のように、当行寺に集まり大いに気勢を挙げた。
 加子三右衛門らは、その席に赴き、利害を説いたが人数も次第に増え終りには役場まで押しかけ一騒動持ち上がらん勢いとなった。
加子らは相謀ってその説得方を代々庄屋を勤めていた酒造家の広中六太夫に依頼した。
六太夫は快諾して共に当行寺で大衆の説得を試みたが容易に承知しなかった。
彼らの一人が言うには、「無料で取れる木を、わざわざ年貢を納めるのは馬鹿馬鹿しい。もし年貢が納められない時には、旦那が出してくださるのかと」難題を吹っかけた。
その時、六太夫は破顔一笑して、「よろしい、この六太夫の身上のある限り引き受けましょう」と言及した。
この一言で大衆も納得して私有地としての手続きを取った。
 その後、明治8・9年頃に公有林の分配説が、前の反対者から提議せられた時、広中六太夫が「前に私有に反対したものが今返って分配を唱えるのは前後矛盾しているのではないか」と言ったので皆一言もなく納まったとのことである。
 この様に田原町史に記載されていますが、この様にして渡辺小華、広中六太夫を始めとする先人の卓見と住民の幸福を願う熱意によって田原区有地として残ったのです。
 尚、広中六太夫翁の功績をたたえて、昭和43年(1968年)六月に銅像の除幕式が行われました。

 
広中六太夫翁